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フリーライド [国民国家]

ゆたかな国とは、消費者にやさしい国のことである。

どんどん向上するサービスは、消費者が指一本動かさなくてもよくなることを目指す。

それは消費者を堕落させる。

一方、生産者はよりよいサービスを生み出すために過酷な労働を強いられる。(資本主義黎明期の肉体的過酷さとは別である)

したがって、もっぱら消費者として生きてきた人間が、ある日突然生産者にならなければならなくなったとき、彼は相当に戸惑う。

ギャップがあまりにも大きい。

それに耐えられない馬鹿者は働くことを拒否する。

雇用が増えてきた今、ニートの原因は若者自身にあるとしか言いようがない。

 


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どこかの大学批判

あほな化学者がいた。

彼は世界に不治の病がたくさんあることを嘆いていた。

「どんな病気も直すことができる、究極の薬を作りたい」

彼はそう思った。

彼はあらゆる薬を混ぜ合わせた。

抗癌剤、坑鬱剤、頭痛薬、胃薬…

それらを混ぜ合わせたらどうなるのか、彼には確信がなかった。

彼にあったのは、

「何かすごいことが起こるかもしれない」

という期待だけだった。

 

12年経った。

彼はまだ何もできていない。


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旅に出てきます [ただの日記]

このごろ更新してないんだけど、それはネタがないからです。

(こんなところに書き込むネタなんてないほうが健康的なんだが)

で、明日からインドネシアに放浪してきます。

なにかおもしろいことがあるかしら。

 


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「いき」VS「イケイケ」 ~「いき」の構造~ [創造的批判]

「いき」の構造

「いき」の構造

  • 作者: 藤田 正勝, 九鬼 周造
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2003/12
  • メディア: 文庫

 今の季節、大学生は前期の単位をとるためのレポート執筆等に忙しい。私も同様である。ただ、社会的存在としての自分を維持していくための忙しさというのは、考えれば考えるほどくだらないものであり、それ自体としてはどうでもいい。それなのにわざわざ忙しがるのは、自適生活を謳歌している大学生相互の社交辞令であって、つまり、大して忙しくもないレポートを忙しいふりをしてたとえばドトールに連れ立って勉強するなどの娯楽の言い訳にしているのである。

 仕事だ仕事だとか、大変だ大変だとか、まあ八割がたは嘘である。忙しくないものというのはこれはとてつもない拷問で、暇よりは忙しいほうが人間は楽しいのである。というよりも、それを無理にでも楽しいと感じなければたやすく過労死してしまうほどに人間は弱い存在である。しかしながら、忙しさという乗り物に自分を安住させすぎていると、いざそこから降りたときに絶望にさいなまれるのもまた人間である。つまりどちらにしてもちぐはぐだ。どうしようもない。

 だから、くだらない社交辞令を拒否し、それにもかかわらず自らの楽しみを見出すのは「いき」である。と、私は思う。ここで私が「いき」だと感じているコトバの意味は、社会内存在でありながら社会的慣習への安易な迎合を拒否するような人間の強さである。しかし、こんな勝手な定義をしたら九鬼周造に失礼なのでこれ以上言わない。

 九鬼が言う「いき」とは、基本的には自己に対して異性を措定する「媚態」であり、しかしながら媚態だけではうっとうしくてだめなので、異性に反抗するような「意気地」と、異性との二元的関係の一元化への「諦め」が伴っているものだということである。「意気地」って言うのが私の言語感覚では多少意味不明な感があるけれど、基本的にはかっこいい定義だと思う。「意気地」と「諦め」っていうのは意識しないとなかなかスポットライトを当てられない。

 しかし、「いき」というのは死語だろうか?「イケてる」というコトバがあるが、それと「いき」とは違う気がする。「イケてる」を発展させたものと思われる「イケイケ」と「いき」はもうまったく違う。「イケイケ」はアメリカナイズされた欲望の屈託ない表出に特徴があるように見える。それは「江戸」の消滅と関係しているだろうか。というのは、先の「意気地」とは、九鬼が暗示するには江戸っ子の感情だからだ。「トーキョー」と「江戸」はぜんぜん違う。「イケイケ」は隆盛きわまる「トーキョー」の感情であり、それは「江戸」の「いき」を呑み込んだ。

 単純すぎる二項対立を恥ずかしげもなくさらしているが、私は九鬼ではないので仕方がない。ただ、私は「イケイケ」よりも「いき」のほうが美しいと思うので、そのような表現をしていきたい。ひとつの社会内存在である私がそう思うのだから、私と同じように思う人は少なくないはずだ。ただ、そのような価値観をどんどん表明していかないと、どんどん「イケイケ」に呑み込まれていってしまう。なぜなら、「イケイケ」はまさに表出すること、あらわにすること、露出すること、自己表現することにその特徴があり、「いき」派が黙っているのをいいことに、どんどん勢力を拡大していくからである。

 万国の「いき」派団結せよ!


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革命~身体・時間・生命~ [創造的批判]

問題なのは、はたしてマクロはミクロで相殺されうるかということだ。

現代社会では、われわれは人生の3分の1を馬鹿賃労働に使い、もう3分の1を睡眠に使い、本当に人生を自分のために謳歌しているのは残りのたった3分の1である。

そして、「人生を自分のために謳歌している」かのように見えるわれわれのわずかな希望の3分の1でさえ、実はモノを買わされ、作られた欲望の奴隷になっているに過ぎない。

作られた欲望!

商品を選ぶ。おびただしい数の差異の体系から、偶然的に出会ったひとつを、われわれは消費する。他者を念頭に置きながら。その他者との差異を鮮明にするために。あるいはその他者に近づくために。

何が「個性」だろうか!個性などというものは、すなわち「何を買うか」である。何か「自由」だろうか!自由などというものは、すなわち「何を買うかを選べる」ということである。

聖「選択の自由」!聖「ヒトソレゾレ」!

おしまいの人間たちは、この偶像を拝む。選択の自由を実現していくことこそが幸福の拡大であると信じながら。何を好むかはヒトソレゾレだから、どんな人でも「自己実現」できるようにしよう。

しかし、それらのイデオロギーは糞資本主義の持続不可能なしょんべん垂れ流し消費社会を前提としている。うぶに選択の自由を唱える輩は、消費社会という思想の内部にどっぷりとつかっており、それに対するわずかながらの疑いさえも抱かないために、自分の主張が、倒錯した前提の上にあることに気づかない。

こんなにモノにあふれた社会が、この先千年続くはずがない!

馬鹿は生命の赴くままに、げらげら笑いながら走り回る!自分が糞とよだれとしょんべんを撒き散らしていることに気づかないまま。そして、周りで迷惑そうに掃除している善人たちに向かって、生まれてきた以上「楽しく」生きなければ損であると説教する。説教してまばたきする。そしてまた走る。酒を飲んでげろを吐く。「楽しさ」というイデオロギーが捏造されたものであることに無自覚なまま。

自称先進国に住む多数の人間のあり方は、大方そのようなものである。これを読んで理解できない輩は抽象的思考能力がないのであきらめよ。お前は馬鹿で、げらげら笑いながら走り回っているだけだ。

問題なのは、それでも楽しければいいのかどうかということだ。そのまま死ねばいいのかということだ。私というちっぽけな存在に、千年先までの責任があるのかどうかということだ。

 

 

 


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ラテン文化に対する考察 [国民国家]

 俳句でもそのような考え方は当然あり、したがって授業でも言われていたが、二つ以上のseparated things、通常は互いに何の関係もないと思われている物事がput togetherすることによって、物質的か観念的かを問わず新たな物事を生み出すとはどういうことかを考えてみたい。
 認知論的考古学では、三万数千年前の後期旧石器時代に生まれたホモ・サピエンスは、大氷河期を前にしてサバイバルのために、大脳を小さくしてそれまで分野別に分かれていた思考回路を横断的なものにするという革命的な変化を実現したらしい。そのことによって、言語分野・社会分野・博物分野などの間に、連想や比ゆや対応を利用した横断的な思考をすることができるようになった。俳句がそのような思考の産物であることは想像に難くない。
 しかし、この革命的変化は、合理的思考とともに、一種の魔術的思考とでも呼びうるものを発生させた。つまり、分野横断的な思考回路によってseparated thingsに概念的共通点を見出して同定することができるようになったのと同時に、そのような同一性の枠からはみ出てしまう概念的過剰部分をもまた「創造」してしまった。もともと異なるものを無理やり同定するのだから、過剰部分の発生は避けられないものである。
 ラテンのアイデンティティがdisproportion、「ちぐはぐ」だということを私は何回も言ってきたがそれは彼らのself-understanding、「自己同定」がアメリカという強固な同定物の過剰部分としてあるからだという意味づけもできる。そのような過剰部分としての自分自身を同定するために俳句などの精神的営みを行い、いわば世界を言葉に置き換えることによって心の平安を得ようとする。しかしそれは常に新たな過剰部分を生み出す。なまなましいものを凍りつかせても、どこかまだ溶解している魔術的部分が必ずあって、それがあるから世界はいつまでも世界のままであり、言葉に完全に支配されることはない。それは同時に文学や芸術に終わりがないことをも示している。世界を記号で表現しようとする永遠の営み、精神の永久運動。そこに不毛を見出した者はひたすら快楽を追求し、そこに終わりのないストリップショーのような魅力を感じているものだけが俳句を作り続け、もっというと学問をし続けているように感じなくもない。
参考文献
緑の資本論

緑の資本論

  • 作者: 中沢 新一
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2002/05
  • メディア: 単行本
ちぐはぐな身体(からだ)―ファッションって何?

ちぐはぐな身体(からだ)―ファッションって何?

  • 作者: 鷲田 清一
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2005/01
  • メディア: 文庫


 


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ペルーからの出稼ぎ労働者について

 また授業の感想をば。

 ペルー人が日本の人口の1%程度で、日本にはそれほどインパクトはないということだったが、それは当然だと思った。なぜなら、あまり目立つと日本社会の風当たりが強くなると考えられるからである。彼らは移り住んでペルー人としてなにかするより、ペルー人という属性を封印して(自己消失を目指して)個人としてお金を稼いでいるだからだ。彼らがもし団結すれば、彼らはたちまちマイノリティになる。もちろん、彼らは今でも客観的には間違いなくマイノリティである。そういう意味でのマイノリティではなく、彼らが日本人に対して「ペルー人」としての自分を主張しだすと、日本人の意識のなかに日本人とペルー人という二項対立が出来上がり、彼らがペルー人を主観的にマイノリティとして認識するのである。
 日本に生活して賃金レベルとしては本国よりもたくさん稼いでいるにもかかわらず、日本にいてもペルーにいるときと同じような生活をしているということだが、身体化された文化はそう簡単に手放すことができないということもあるかもしれない。しかし、もっと重要だと感じるのは、日本で生きるためにはある程度の貨幣が必要なのだということだ。私はペルーの物価がどれくらいなのか知らないがペルー社会での日給1000円と日本社会で日給1000円とは差があるだろう。貧困というのは、金が必要な社会のなかで金がないことであり、そもそも金が相対的に必要でない国で金がなくても大して問題ではない。

参考文献

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来

  • 作者: 見田 宗介
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1996/10
  • メディア: 新書



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ワールドカップ [国民国家]

玉けり遊びが世界大会を行っている!

貧国を搾取し続ける自称先進国はすべて負けろ!

とくにエネルギー消費量ダントツ世界一のアメリカは消えろ!

全員穀物を食えば餓死する人はいなくなるのに!

穀物を豚に食わせてその豚を食っている先進国は負けろ!

球をけっている瞬間にも餓死している人間がいることを忘れるな!

その脚の筋肉は貧国の犠牲のうえにあることを忘れるな!


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チカーノ・アートに関する考察 [国民国家]

 チカーノの美術は、全体的な印象では反抗ということを露骨に感じさせるものが多かった。この反抗は、歴史的なことを考えると正当なものでありながら、制度化され、地理的な意味でのアメリカ大陸にあたかも昔からあるものであるかのように定着したアメリカ文化に従属しているという苦しさを私は感じた。たとえるなら、チカーノのアメリカ文化に対する反抗は、反抗期になった中学生の親に対する反抗に似ている。中学生は、自分が親に生かされているにもかかわらず、親を否定して自分を主張しようとしてもがいている。従属しつつ抵抗するという苦しさ、本質的に完全なる抵抗が不可能な抵抗をしている。本当は、チカーノは中学生にたとえられるべきではない。なぜなら、かれらは先住民であり、歴史的には正当な、アメリカ大陸の「親」だからである。しかしながら、アメリカ文化、もっというなら資本主義という経済システムのパワーはあまりにも強力なので、それは遅れてきたものでありながら、アメリカ大陸に、あたかも昔からあるもののように、あたかも「親」であるかのように定着した。親子関係は、完全に逆転した。そのような状況下では、チカーノの反抗は苦しさを伴って現れざるを得ない。なぜなら、彼らもまた資本主義経済の一員となり、歯車の一端を確かに担っているからである。
 構造的に全否定不可能な反抗は、たとえば「らくがき」として現れる。学校の公認された「らくがき」は特に印象に残っているもののひとつだ。あのデザインは、下北沢などにある日本のストリートの落書きにそっくりだった。日本では、あのような落書きは、消される対象である。なぜなら、それは社会の「調和」を乱しているからである。私たちは、自分の住んでいる土地が確かに日本であり、秩序ある空間だという安心感がほしくてたまらない。ストリートの落書きはそのような精神的「調和」を乱すから許せないのである。チカーノは、アメリカ社会の「調和」を乱す「らくがき」を公認しているが、裏を返せば、そのような形でしか抵抗できないことの苦しさがにじみ出ている。

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フジモリ前大統領とボリビア移民政策に対する考察 [国民国家]

 ペルーについては、フジモリ大統領が日系人であることを前面押し出した選挙を勝利したことについて3点。まず、アイデンティティはいかに国家とともに存在しているかということ。不可避的に、人間は自分の生まれる場所を選ぶことができない。まったくの偶然に「あの地」に生まれ育った自称ペルー人が、大統領選挙というペルーの一大イベントを機に、自分たちはたしかに(ほとんどア・プリオリに)「ペルー人」だというように自己を同定し、またフジモリに対して「日本人(=驚異的躍進で経済大国になった)」という他者を見出している。こうした短絡的思考回路は、国家は実在し国民は単一的同胞であるという嘘を無意識のうちに内面化し、嘘によって生じる矛盾の原因を見失う。次に、国家がなにかのシンボルによって表象されるということ。映画「ラストサムライ」を思い出すまでもなく、日本人といえば侍である。しかし侍という表象だけで日本を理解することはできないし、それは「ペルー人」にとって「自分たち(という幻想も侍の姿を見たときに同時に発生する)」との明らかな差異以外を意味しない記号である。そして最後に、そのようなもはや得体の知れない記号がイデアライズされるということ。「日本」はすごい、「自分たち」もそのようになりたい、という夢を「あの地」の人々が共有したという事実がフジモリを大統領にした。


 ボリビアの移民政策については、たしかに所得の高い国から低い国への移民が、キャッチフレーズの嘘を伴って行われたことは日本政府の反省材料だろう。しかし、これは多分相当独創的な感想だと自覚しているが、私はなにかすっきりしない。さっきのも言ったが、生まれる場所は選べないわけでしょ。たまたまボリビアに生まれたひとは、誰にも助けを求めることができないまま(そもそも助けを求めるという発想が出ない)そこで生活していて、そこへたまたま日本に生まれた人がやってきて、「こんなところに住めるか!」って怒ってる。怒ることさえ先験的にできない人がいるのに。両者の違いは所得の高い生活を体験したことがあるかないかだけなのに。世界システムとしての資本主義は、所得の低い「ボリビア」があってこそ成り立っているのに。「日本」と「ボリビア」は、構造的にコインの裏表なのに、たまたま表側に生まれた人が自分の裏側に行ってみて怒って、表に帰してくれっていってる。でもその表だって自分が選んで生まれてきた場所ではなく、自分は裏側にずっといた可能性だってある。だからやっぱりなにかおかしいと思う。

参考

ラスト サムライ

ラスト サムライ

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • 発売日: 2005/11/18
  • メディア: DVD



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